ロス

『サクラ』という植物がこの地上から消えて何年が経つだろう。
しかし、日本の山深いこの丘に、1本桜が人知れず咲いていることをまだ誰も知らない。
・・・・・・
その20年前に話はさかのぼる。。。
人里離れた山深いこの丘の上に、シグマ研究所はひっそりとたたずんでいる。研究所長のアルファ博士は、沈んだ面持ちでチェアーに深く腰掛けていた。実は、1年前の今日、8年間連れ添った、愛鳥のセキセイインコの「サリー」とお別れしたのだ。博士は、いわゆる「ペットロス」に陥り、この1年、生きる気力をも失いかけていた。でも、朝晩、博士は庭に埋まったサリーに話しかけることで、その生を保っていると言っても過言ではなかった。不幸なことは続き、次は、原因不明の病原細菌によって、世界中の桜の木が消滅する事件が起きた。博士が生まれたときに植えられた庭の桜の木も、ご多分に漏れず枯れ落ちた。こんなにも「ロス」が続き、博士の落ち込みは、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵に届くかのようであった。
そんな絶望の淵にいるときだった
「く~ん、く~んっ」
庭先で何か鳴き声が聞こえた。そこには、小さな真っ白な犬が迷い込んでいた。こんな山深いところに仔犬が迷い込むことは考えにくい。恐らく、誰かが捨てていったのかも知れない。でも、博士はそうは思わなかった。
「きっと、サリーの生まれ変わりでは?」
博士が庭に出ると、その仔犬は尻尾を振って博士に駆け寄ってきた。
「よーし、よし、よし、よしっ。」
博士は、両手でこの仔犬を撫でまくった。
「お腹が空いているのかな。」
ポケットに入っていたクッキーをあげると、喜んでそれをむさぼった。
「よし、今日から、お前は、『クッキー』だ。」
「バウワウッ」
そして、博士とクッキーの『二人』は『家族』になった。
1年間、研究者として「冬眠」していた博士は、また活動を始めた。博士の新たなモチベーションは、この世の中からペットロスを無くすこと、そして、すべての人が幸せな人生の終焉を迎えること、これらを実現する技術を開発することである。
博士は、僅か1年で最初の技術を発明した。それは、生き物の寿命をある時期で停止させること、すなわち、不老不死の技術である。ペットが死なないということは、「ペットロス」はもうこの世の中から無くなったということになる。
「それじゃ、この技術を使えば、人間ももう死なないの?」
という疑問が生じるかも知れない。しかし、この開発は突貫工事だったせいか、人間用とは根本的に設計が異なり、「犬」にしか効果が発現しなかった。
一方で、博士はすでに齢、83歳。死が一歩、一歩、歩み寄っていることを感じていた。博士は、自分が万が一、亡くなった場合に、クッキーの世話をしてくれるアンドロイドの製作に取り掛かった。これも僅か1年で、新たな動力源となる小型核融合炉と蓄電池を有する新型ロボットを造り上げた。博士は、このアンドロイドを、「ラドム」と名付けた。博士はこの時点で、84歳。しかし、生き続ける犬とアンドロイドを創ってみて初めて気が付いた。消滅することによるロスは無くなるが、それが「生きとし生けるもの」の本当の幸せなのであろうか?と。それと、ラドムもアンドロイドとしてどこまで「成長」して、人間に近付くかも博士は十分想定ができていなかった。クッキーがいなくなったとき、ラドムはどう感じるだろうか?博士はその解析に時間をかけるよりも、残りの自身の寿命を一匹と一体のハッピーエンドに注ぐことを誓った。そして、博士は死ぬ前の1年間、自身が死んだ後に残される、クッキーとラドムが幸せな最後を迎えられるように、研究者として全身全霊を注ぎ込んで最後の発明を行った。そして、それが完成した時、博士は眠るようにベッドで息を引き取った。
「く~ん、く~んっ」
クッキーが博士の枕元で、博士にお別れのキッスをした。
この瞬間、クッキーの生命の時計が、3歳から正常に回り出した。悪い言い方をすれば、「死」に向かって動き出した。それから12年後、クッキーは静かに息を引き取った。それと同時にクッキーの状態をセンシングしていたラドムのすべての電源が停止した。次に、屋内カメラでそれらをセンシングしていた博士の最後の発明が起動した。クッキー、ラドム、そしてシグマ研究所の建物は、博士が発明した物質分解装置によってみるみる分解され、小高い丘に吸収されていった。そして、その丘の一番高い地点に、同時に合成されたある植物の「種」がそっと埋まった。
・・・・

それから30年の月日が流れた。。。
「パパ、ママ、早く来て~っ。」
世界に1本の「サクラ」の木、一本桜に向かって、エリーは走った。
「そんなに急ぐと、転ぶわよ。」
ママの声がした。
「きれ~い。すご~いっ。」
小高い丘の上の1本桜は、今では有名な観光スポットとなって、この季節、訪れる人々の心を和ませている。しかし、もともとその丘にはシグマ研究所があったこと、その「サクラ」の原料が、「サリー」、「クッキー」、「ラドム」であることを知るのは、天国にいる博士だけ。。。

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